現代人に必要なのは『何もしない力(りょく)』である

 

 娯楽が極限レベルに飽和した現代において必要なのは、何もしない力である。

 

 最近思うのだが、人間とは『精神力を消費して反応や思考や動作を行う生き物』なのではいないだろうか。

 言うなれば、『精神エネルギーという名の電気やガソリンを使って動く機械 = 人間』とでも言い換えられるか。

 精神エネルギーを消耗する行為に関しては、例えば労働は言わずもがな、入浴や掃除のような雑事や、人にとっては何かを見たとか、或いは聞こえたとかでもしっかり精神力は削られる。

 

 ここで重要なのは、この人間の精神力の総量は一週間か、或いは一日かは定かではないが、とにかく配給制のように一定期間内に有限であるという点だ。

 その為、あまりにも消耗し過ぎた場合は完全に枯渇してしまう。

 そして万が一この精神力が枯渇状態に陥った場合、人間という機械は何もできなくなる。

 この何もできなくなるとは、例えばモチベーションが湧かなくて何もかもが面倒に感じたり、精彩さの著しい欠如や、注意散漫等のような症状が主として現れる。

 この状態では目的達成のための努力など言うまでもなく、趣味や本来楽しい筈のゲームですらダルくてやれないという事態をも招く。

 回復には休息と睡眠しかないが、一日に取れる睡眠時間は長くても精々8~9時間ほどで、それ以上の睡眠は却って害となるため回復手段の行使にも限界がある。

 そのため、やはり取れる戦略は節約しかない。

 

 そしてここで言いたいのが、『何もしないを選択する力』、略して『何もしない力(りょく)』だ。

 先にも述べたように、人は何をするにしても精神力を消耗して動くわけだが、仕事や勉学や生活上の雑事に関しては、これはもう生きる上での宿命なので仕方ない。

 問題は、必要ないにも関わらず漫然と見てしまいがちなスマホやSNS、ネットサーフィンにある。

 電車での移動中、食事中、休憩時間中、少し時間が空いた時、寝る前の布団の中など。 これがいけない。

 

 なんでも現代人は一年の内に大体3000万だか4000万語以上もの単語を目にするらしく、これは大昔の人間が目にする400年分の情報に相当する。

 この圧倒的な情報量を我々はたった一年で飲み干すことを意味している。

 このような状態では精神力が枯渇しない方がおかしいだろう。 よって何としてもSNSやネットサーフィンを制限し、いつもならスマホの操作に向くであろうタイミングを、敢えて何もしないように努める必要がある。

 

 ……ただ実際にやってみて思ったことだが、このネット社会においては何もしないというのは思った以上にキツい。

 『精神力を温存する為に何もしない』という行為で精神力を消耗するのだ。

 私自身、既に何度か自制心の防御線を敵軍に破られ総崩れをするという憂き目に遭っている。 まあこの総崩れの際に、壊滅するにしてもどの程度の壊滅に抑えられるか、又自制心の壊滅後に再び防御線を立て直せるかがある種の本番な訳だが、今回はそれは置いとくとして。

 ともかくこれは一朝一夕に何とかなるものではない。 筋トレのように長い時間をかけて少しづつ身に付けるもので、それなりに覚悟も手間もいる。

 何より何度失敗してもファイティングポーズを取り続ける、ゾンビのようなしぶとさが必要だ。

 だがそうして死闘の果てに生み出された精神的余裕が、色眼鏡を外した物事本来の姿を捉える余白を我々に与え、或いは本来向けるべき方向に努力する原動力が生まれるのではないだろうか?

 現在進行形で重度のネット中毒者的にはそのように思える。

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